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6月, 2021の投稿を表示しています

みなかみ紀行

吉田類が心酔する歌人の紀行記だけに何をおいても読まねばならぬ一冊だった。主宰する歌誌の同人を至るところに訪ねて、思いつくまま温泉宿に泊まるは、駅舎でも民家でも酒を所望し鯨飲する。道中散々な目にあったり、行く先々でトラブルに遭遇する。大正末期の古き良き日本の情景と相まって読めば読むほどに快い酔い心地に誘ってくれる短編集である。

パンのみにて生きるに阿羅漢

月曜日は細君と昼飲みできる環境なので栄まで繰り出して飲んだ。飲み進むうちにこれからは凡夫ではなく人に親切にする羅漢を目指すのだなどと宣言してみた。締めの焼きそばが品切れだったので、セントラルパークの京都桂別邸でパンを買い求めたのだがこれがなんとも旨い。難しい話をする羅漢よりパンを物色する平凡な夫の方が妻にはいいみたいだ。

徳川慶喜 (三)

小学生で読んだ明治維新にまつわる本以降、習った歴史や親しんだドラマで常識であり事実であると信じ込んできたことがなんとこの歳で覆るとは。現今の政界をリードする旧長州閥の欺瞞は薄々見抜けていても、まさか薩摩の偉勲が狭量な覇権主義に基づいたものとは思いもよらなかった。歴史とは小林秀雄が言い山岡荘八が描いたように後世から覗いてみるだけでは真実に触れることなどできないようだ。

先生ごめんなさい。

晴れ男検定をせっかく拝領したのに、今日のゴルフは台風に刺激された梅雨前線の影響で雨模様の予測だ。前日に同伴者からもし相談されたら養命先生のごとく「やめなさい」とあっさり答えたかもしれない。やめて自宅で酒でも飲んで滋養を蓄えた方が利口かもしれぬ。先生の言うことなど素直に従ったことのない少年時代を過ごしているので、やめなさいと言われればやりたくなる臍曲がりは直らない。

徳川慶喜 (ニ)

桜田門外ノ変後の慶喜の進境にはコロナ禍における人心の心構えさえ学ぶべき示唆がある。「季節に春夏秋冬の移りがあるように、この宇宙には人間の小さな知恵では計り知れない軌道がある。あやしい小我で動いてみても、それはむしろ、われとわが身で混乱を助長させる妄動に過ぎないのだ・・・人間の知恵が浅く、自然の軌道を離れすぎると、当然自然は人を裁く。自然に裁かれずに済むほどの世作りがなされていてこそ、人の世も又、日月星辰(じつげつせいしん)の動きのように整然と軌道に乗ってゆくのだ。」

徳川慶喜 (一)

安政の大獄で蟄居させられたばかりの慶喜と爺を務めてきた井上甚三郎との対話は圧巻である。物語を読んでいて涙が溢れてくるとは芝居を観るようだ。豚を食べない甚三郎が鰯と焼豚を肴に熱燗をぶら下げてきて 「獣と魚では食する者の罪障もおのずと異なってくるようじゃ」 「何れも生き物、なぜでござりましょう」 「豚はブウブウ不平らしく喚き散らす。その声がひどく哀しい。そこへゆくと魚は声を立てぬ」 「これは異なことを承る」 「なに、なんと申した?」 「上様らしからぬことを仰せられる。上様はブウブウうるさく喚くものにはお気を付けさせられ、黙って仕えるものにはお心をかけさせられませぬか」 「なるほど、そちも豚を喰うか」 「いかにも、魚はよいが四足獣は戒のうち・・・などと考える小乗は理に合わぬ。これは上様の方がご立派であったと心付きましたるゆえ、向後、鰯は断って豚に鞍替えを致します」 「ほう、すると予は鰯を喰いにくいが」 「とんだことで!上様は鰯も豚も茸も、竹の子も召上がらねばなりませね」 「その理は?」 「声あるも無きものも、ひとしく心(情)は持って居ります。喚くゆえに許し、黙っているとてむさぼるようでは、ご政道は立ちませぬ。 彦根の牛めであろうと、越前の鰯であろうと、ポリポリ頭からお喰べなさらねば」

ぢっと手を見る。

サラリーマンの頃は見かけるおばちゃんがどうも苦手だった。やたらと図々しくて有無を言わさず入り込んでくるからだ。完全リタイアしてスーパーやら散歩の途中で遭遇してみるとなにやらみんなかわいらしい。彼女たちより歳を食ったせいかもしれぬ。ふと自分の手を見るとシワだらけではないか。たしかにさもありなんであった。

女房と座椅子は

配当金で細君が買ってくれた座椅子。ついつい彼女が買ってくれたことを忘れ睨まれたこと数度。そういう経緯なので少々お尻のところのクッションが薄くなり痛くなっても我慢して使ってきた。しかしいよいよ我慢できなくなって恐る恐る細君に買い替えを頼んだが生返事。新品を買った店が古いのを引き取ってくれて処分に頭を悩ましていたと分かった。女房も座椅子も大切にしなくてはいけませんね。

祭りごと

草彅剛の名演に感心して山岡荘八 「徳川慶喜」全三巻に挑んでいる。橋本左内と西郷との遣り取りは瞠目だ。「政治はまつりごとと云います。まつりごと、つまり悠久の天壌と共に生き継ぐ生命のお祭り・・・即ち天地のまことでなければなりません」「なるほど」「それを忘れて駆引きを考えたり、知謀を考えたりするのは、能吏であってもほんとうの政治家ではありません」つまりマキアベリの世界であってはならないという。そういえば五輪も祭りであった。

ちちまるのやきまる

桜井有吉 THE夜会で今田耕司が紹介していたイワタニの「やきまる」がいいなということで早速買い求めた。かつて家族が多かった頃にはこれより二回りくらい大きな鉄板を使っていたとあとで細君に聞いて意外と小さいのに驚いた。焼肉好きの長女が来るのに合わせて買ったが、代わりに次女夫婦とマゴが来て焼肉パーティー。「ちちまる」をもらえたかな?

飾りじゃないのよモナカはへいへい

開催→有観客→上限一万人となし崩しにしていくやり口は時代劇の悪代官の手法だ。知らね存ぜぬの都知事はその手下、観客を騙して手柄にしようと画策する組織委は腹黒い廻船問屋の主人だろう。スガ幕府の専横に待ったをかけるはずの尾身御老公も印籠のワクチンだけでは霊験示せずだ。最中にだって餡子がある。五輪のマークの印籠にひれ伏さない名案を示してください、御老公。

虹とウイスキーのSESSION

突然降り出した雨に倅を迎えに行った細君からLINEに届いた虹の写真を見ていたら、帰ってきた倅から一週間遅れの誕生日プレゼントをもらった。SESSION「奏楽」というニッカウイスキーとは音楽好きの父に相応しい酒だ。スコッチと与市モルトのブレンドに虹のSESSION。禁酒も中断してフルーティで芳醇なオンザロックを堪能した。

月に代わってお仕置きよ

月の映画を観ながらふと疑問が湧いた。月には重力ってあるのか?たしかアームストロング船長は闊歩してたな。月の質量は地球の0.0123倍、地球の半径は6,378km、月は1,738km。万有引力の法則の計算式に代入して比を求めると0.16594となるから、月の引力は地球の0.16倍つまり月の重力は地球の6分の1ということになる。オリンピックは月のお仕置きとでも考えるか。

あてなきよる

宣言解除後の酒の提供について、酒を飲まない人には自粛だろうがなかろうが関係ないと広言する政治ジャーナリストがいた。喫煙もそうだが嗜好品に対して非嗜好者は冷酷だ。酒に「あてがう」ということから酒の肴をアテと言うそうだが、タバコや酒という人生のアテを持たぬ人は何処へ向かって生きていくんだろう。

大規模摂取か

電話してから来てくださいと言われてたものの細君と二人で30分前に現地到着。意外や意外、すでに来ていた車は一台だけで並んでる人はいない。これなら大丈夫と一応先頭で待っていたが直前には後ろに7,8人並んだ。さてもワクチン接種かといえばさにあらず。昨日再発売となったアサヒスーパードライ生ジョッキ缶のことだ。なんとか2箱手に入れたんで48本大規模に摂取するか。

映画「イップ・マン」

日曜日の午後からぶっ続けで夜9時まで全4部作をまさか見ることになるとは思わなかった。あのブルースリーの師匠の話と言われてもピンとこなかったが、豈図らんや太極拳ならぬ詠春拳の達人ときた。早逝した妻のひと言「なぜ女性は美しく愚かなのか?女性が美しいから男は女に恋をし、女性は愚かだから女が男に恋をする」とは蓋し名言である。

講釈師見てきたように戦風記

例年今頃には細君が扇風機を組み立て用意してくれるのだが、今年は昨年分解せずに出しっ放しのまま出てきた。埃だらけの羽を指摘すると前カバーが外れなかったらしい。共同作業でいろいろやってもこれがなかなか手強い。ネットで調べてみるとなるほどマイナスドライバーでこうすればいいのか。講釈してる夫、強行突破する妻であった。

安いニッポン

ビッグマック指数というのがあるそうだ。2021年調査で日本で390円のビッグマックがアメリカで5.66ドル(590円)。日本円は33.9%も過小評価されていることになる。賃金の安さは安倍政権と黒田総裁が続けてきた異次元緩和による恣意的な円安誘導なんじゃないかと疑いたくなるが、筆者や登場する専門家は口にしない。生産性の低さを嘆く前にビジネスモデルの陳腐化や無駄な働き方という現実をもっと知るべきだろう。

スムージー頭痛

アイスクリーム頭痛というらしい。冷たいものを食べると頭がキーンと痛くなるのだ。調べてみると、 喉にある三叉神経が刺激され、この時に発生する伝達信号を脳が冷たさを痛みと勘違いし頭痛が起きるのだそうだ。ちなみに細君はなったことがないという。二人で仲良く食べていたが途中でギブアップ。対策は「ゆっくり時間をかけて食べること」?そんなことわかっとるわい💢

考えるヒント (下)

全編を通じて考えるヒントばかりだが、隠居について孔子が説いた「陸沈」という言葉は面白い。世間に捨てられるのも、世間を捨てるのも易しいことだ。世間に迎合するのも水に沈むようなものでもっと易しいが、一番困難で、一番積極的な生き方は、世間の直中に、つまり水無きところに沈む事だ。英国では隠居をcountry gentlemanというそうだが、市井にひっそりと暮らして大いに天下国家を論じたいものだ。

考えるヒント (上)

歴史というものは過去の累々たる屍を検視する様なものじゃない。文学、美術品などの遺産に触れる際に、思想や観念として確立された固定概念に縛られてはいけない。それぞれの時代に現に生きた人の営みとしてリアルに接する必要がある。本居宣長などは難解だが、「もののあはれ」はそういう視点でなければ感得できない情念だろう。

無常という事

大学受験の模試なんかで読まされた「無常という事」に四十数年振りに触れてみると、当然だが読み方が変わった。あの「過去から未来に向かって飴の様に延びた時間という蒼ざめた思想」という難解だった文節もよく理解できるし、無常という事がこの世は移ろい易いものだなどという浅薄な思想ではなく、過去も現在という「常」なのだと思い至る。上手に思い出すことで人間になりつつある一種の動物から脱したいものだ。

いのちなりけり

充実した九日間だった。10作品11冊を一気に読破して葉室を勧めてくれた友人たちにこの場を借りて謝辞申し上げる。まさに雨宮蔵人ではないが、利害損得ではなく心と心で通じあえる友人の存在こそ何のためにこの世に生まれてきたのかの答えなのだろう。晴耕雨読の日々に命を吹き込んでくれた良書の数々であった。

花や散るらん

解説に小林秀雄が出てくるとは意外だ。芸術と思想は生と死と同様に不二である、と定立することで小林に対峙したと解説者は読み解く。たしかに三部作に一貫する物語性、娯楽性は芸術と思想を見事に共存させている。そこに葉室の作風があり、魅力があるのだろう。いよいよ次は10冊めである。

影ぞ恋しき (上)(下)

そういうわけでいちばん最後に読まねばならない三部作の完結編を真っ先に読んでしまった。これまでの作品と際立って異質なのは、やや荒唐無稽かと思われるほど活劇調な展開か。辟易したくなりながらも読後に痛快感が支配するのは、作者が敬愛した海音寺潮五郎の系譜に連なるからだろう。さて話を巻き戻すとするか。

未来よそうず

締めの3冊に三部作を買った。いちばん手前は「感動の三部作遂に完結」とあるから当然最後。2番目が上巻、3番目が下巻なのだが、上巻は「渾身の長編小説」とあるからまず上巻を読み終えた。勇んで下巻を手に取ると「三部作遂に完結」とあるではないか。おいおい最後を読んでしまった。どおりで過去の話が前提になってたわけだ。いまさら戻って読み直すのもなんなので過去へ戻るとするか。

秋月記

とうとう6日間で7冊読破だ。膝に入ったマゴが本にやきもちを焼いてページを破いたので図書館に謝らねばならぬほどだ。筑前の小京都と呼ばれる福岡県朝倉市秋月が何冊かにわたり舞台となるので、コロナが終息したら行ってみたくなる。若さは若さで、老境は老境で見えるもの、見えなかったものがあることを受け入れさせてくれる秀作である。10冊になったらひと休みだ。

散り椿

最後の最後まで結末がどうなるのか読めなくさせるから人たらしというか、読者たらしだ。作者の手の内がだんだんわかってきているのに感動させられて悪い気がしない。組織にしろ夫婦にしろかくありたいと気づかされるお勧めの一冊であった。

あつさ2号

昨年蜂に刺されるアクシデントはあったが剪定をさせてもらったお宅から再びオファーがあった。今年は蜂対策で5月中ならと引き受け細君と4時間かけて作業。剪定ではなく草刈りだと細君がいうのに倣えば、われわれは庭師ではなく草狩人といったところか。昨年暑い盛りに汗だくになってやったことを思えば、今回はさわやかな青空のもと達成感もひとしおであった。

川あかり

毎日葉室麟の作品紹介ばかりが続いて恐縮だが、生来の凝り性はさておき作品の幅の広さ、内容の深さに翻弄されている。5冊目は史実を彩った人物を脚色したものではないが、エンターテイメントとして最高峰といっても言い過ぎない。そうか、こんな展開があったかと改めて作者の構想力、筆致力に唸るばかりだ。