安政の大獄で蟄居させられたばかりの慶喜と爺を務めてきた井上甚三郎との対話は圧巻である。物語を読んでいて涙が溢れてくるとは芝居を観るようだ。豚を食べない甚三郎が鰯と焼豚を肴に熱燗をぶら下げてきて
「獣と魚では食する者の罪障もおのずと異なってくるようじゃ」
「何れも生き物、なぜでござりましょう」
「豚はブウブウ不平らしく喚き散らす。その声がひどく哀しい。そこへゆくと魚は声を立てぬ」
「これは異なことを承る」
「なに、なんと申した?」
「上様らしからぬことを仰せられる。上様はブウブウうるさく喚くものにはお気を付けさせられ、黙って仕えるものにはお心をかけさせられませぬか」
「なるほど、そちも豚を喰うか」
「いかにも、魚はよいが四足獣は戒のうち・・・などと考える小乗は理に合わぬ。これは上様の方がご立派であったと心付きましたるゆえ、向後、鰯は断って豚に鞍替えを致します」
「ほう、すると予は鰯を喰いにくいが」
「とんだことで!上様は鰯も豚も茸も、竹の子も召上がらねばなりませね」
「その理は?」
「声あるも無きものも、ひとしく心(情)は持って居ります。喚くゆえに許し、黙っているとてむさぼるようでは、ご政道は立ちませぬ。彦根の牛めであろうと、越前の鰯であろうと、ポリポリ頭からお喰べなさらねば」
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