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11月, 2021の投稿を表示しています

夏の砦

バラをバラと言わないで表現するのが文学だよと文豪の何某が言ったそうだが、これだけ回りくどい表現に塗り込められた作品には辟易とする。スタンダールの赤と黒じゃないが、フランス文学に傾倒するとこういう作風になるのかと呆れる。グスターフ候の十字軍遠征の挿話がなぜ必要なのか意味不明だ。形而上学的に美や死を見つめるのに支倉冬子というキャスティングは明らかに間違っている。(109冊目)

読書老人

夫婦で知人に会ったりすると、近頃決まって細君が口にする台詞は「朝から晩まで本を読んでいる」だ。たしかに4月以降毎月10冊以上読んで80冊にならんとしているし、300ページ程度の本は読むのに半日かかるが、買い物は付き合うし一緒に居酒屋へも行く。空いた時間にギターの練習もすれば遊びに来たマゴの相手もする。さほど読書に時間を割いているとは思えないのだが、彼女の目には独居老人のように映るんだろう。

銀の匙

いつかは読んでみたいと思っていた作品をようやく手にした。なんだこれは、文章はともかく内容はほとんど子どもの作文じゃないか。漱石はなにを絶賛したのだろうと不審に思いながら読み進むうちに、自分の子供時代が髣髴と重なってきて一編の詩の如く心に響く。大人が子供時代を振り返って書くのではなく、子どもの視点で書いたのが秀逸だと和辻哲郎は解説する。なるほど然りである。(108冊目)

宴のあと

読み始めてから何故この本を読む気になったのか思い出した。高級料亭般若苑の女将畔上輝井と元外相で都知事選に立って敗れた有田八郎夫妻をモデルにしたため、三島とプライバシー侵害で係争した問題作だった。「この物語はフィクションです」のテロップが流される元となったそうだ。争った相手は有田だったようだが、別れた細君の女将が読むと怒るだろうなという箇所の方が多いのが面白い。(107冊目)

夫婦の絶壁

御嶽、仙丈ヶ岳、甲斐駒ヶ岳を友人達と10年前に登り、その後細君と霊仙山に登って、昨年は常念岳に挑んだものの登山靴の底が剥がれて断念。リベンジで御在所岳1,212mに登ろうと今回細君を誘ったが、とても登頂する自信はなかった。見上げるような断崖絶壁も乗り越え登頂、下りは恐怖で脚がすくみながらも岩に取りつきながら下山。絶壁に立って知る夫婦の本当の値打ちだった。

人新世の資本論

気候変動に対処するにはSDGSやグリーンニューディールを掲げているだけではなにも変化を生まない。成長路線と決別して脱成長に舵を切らねばならないという話だ。カーボンニュートラルはCO²の排出量=吸収量とする企業の試みだが、光合成をする植物はCO²を吸収するが呼吸して排出もするからニュートラルだ。マルクスの話より光合成について考えて欲しかった。(106冊目)

恩讐の彼方に

読解問題の一部としてしか読んだことのなかった「恩讐の彼方に」の全編は流石に面白い。「忠直卿行状記」「藤十郎の恋」「蘭学事始」ほか短編数作の講談のような話に引き込まれるのは主人公らが人生の悲哀や悲運に健気に立ち向かうからだろう。芝翫の歌舞伎で垣間見た「俊寛」が菊池流に脚色されて楽しめるのも一興である。(105冊目)

朱を奪うもの

紫の朱を奪う、とは古代中国で正色とされた朱色が孔子のころに間色である紫色に取って代わられたことから、まがいものが本物に取って代わり地位を奪うことだそうだ。昭和初期の女性が打算と空想で人生を構築しようと煩悶する姿が、虚実のせめぎあいそのもので、今の時代にも通ずるかもしれない。昭和53年版は古文書のようで茶が白を奪っていた。(104冊目)

奇縁まんだら

案の定、図書館では大往生したばかりの作家の蔵書はほとんど出払っていた。21人の文豪たちとの邂逅のエピソードで構成される作品だったが、文豪たちの人間臭さが赤裸々に綴られていて面白い。遠藤周作の章などは老境を迎えたおのれの心持ちも重ね合わせると胸が苦しくなる。横尾忠則の人物スケッチが実に楽しめる。(103冊目)

ファシリテートする

会議などすると意見がなかなか出なかったり、促して意見が出たら出たで結論がちっともまとまらないなんてことがよくあった。各自の意見を引き出し方向性をまとめながら集約していく力をファシリテートというのだった。たかがイベントでも参加者の期待値は異なるわけで、バラバラの取組姿勢を細かい周辺準備を整えながらどうまとめていくかを楽しみたいものだ。

あはれからもののあはれへ

世のなかは夢かうつつかうつつとも夢とも知らずありてなければ 古今和歌集詠み人知らずの一作だが、原爆に被災した作者は「ありてなし」を「あってない」ではなく「あるからない」と詠むのだと気づいたという。「もののあはれ」や世阿弥の風姿花伝にまで思想を至らせる全編に、この歌に潜む重層的な深い思索が読み取れる。(102冊目)

7つの贈り物

毎日悠々自適の読書生活を送っていたら、退職後一年間だけ勤めた職場から電話がかかってきて来年2月から2ヶ月半だけ事務作業の手伝いに来てほしいと頼まれた。ウィル・スミスのこの映画を観ていたら、贈り物はひとつやふたつでなくてもいいと思えるような気がしてきた。3度目のお返しの人生も悪くはないが、スーツのサイズが合うのか、ネクタイの結び方は思い出せるのか。

人生のアプローチ

ゴルフ友達の父親の葬儀に参列した際、居合わせた別のゴルフ仲間と話をした。彼とはいつもゴルフでアプローチに苦労してグリーンを行ったり来たりしてばかりだ。人生でもあっちこっち行ったり来たりして苦労ばかりしているわけだが、お互い長生きするにはアプローチが下手な方がいいねと励ましあった。人生のゴルフはスコアが多い方がいいのかもしれない。

知りたくないの?

愛知県でも昨日はコロナの感染者が2人だったと新聞が報じる。はたしてその2人はワクチンの接種者だったのかどうかが実は知りたい。接種していても感染したなら、いよいよ第6波を冬に警戒せねばならないし3回目のワクチンも打たねばならぬ。「いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな」(伊勢大輔)の奈良は「なな」とかけ七八九と末広がりを連想させる和歌だが、コロナで連想はしたくない。

飢餓海峡 (上)(下)

映画化されたものを見たのはいつだっただろう。主人公を演じた三國連太郎の強烈な存在感だけが記憶に焼き付いていてストーリーはまったく覚えていない。改めて書物として原作を読んでみると10年にわたる人間ドラマの壮大さに映画以上の存在感をずっしりと感じさせてくれる。以降推理小説は書きたくなくなったという著者の気持ちがなんとなくわかるような気がする。(101冊目)

星空の流細君

久しぶりに細君と名古屋市内まで飲みに行く道すがら、今夜はなんとか流星群が見えるそうよと聞いた。帰りの駅に着いてそういえば流星はどうなったかなと夜空を見上げながら歩いていると、背後でドタっと物音がした。見ると細君が片手をこちらに差し伸べながらコケてるではないか。横切った駐車場の車止めにつまずいたようだ。慌てて抱き起こしたが流れたのは彼女だった。

雪国

いかなる時の世にも義理立ても心中もしなかった作家だと竹西寛子が解説しているが、早熟な天才の出世作からも片鱗が窺われるのが名作の所以かもしれない。有名な書き出しの言葉に寄り添うように美しい情景と抒情の描写が全編に散りばめられており短編であるのが恨めしい。100冊目に選んだ甲斐のある一度は手に取るべき価値ある一冊だ。(100冊目)

山の音

野間文芸賞を受賞した川端50歳の時の作品だそうだ。伊豆の踊り子27歳、雪国36歳、千羽鶴50歳だから円熟期を迎えた頃の作品だ。還暦を過ぎた男に訪れる軽い老化現象と埋み火のような男の性が淀みない筆致で叙情的に描かれる。さすがは三島に強請ってノーベル文学賞を譲ってもらっただけのことはある。(99冊目)

サンタクロースに戻れたおじいちゃん

コロナでこの2年呼んでもらえなかった障碍をもつ幼児施設へのサンタクロース訪問が今年はようやく実現する。24日のクリスマスイブにギターを奏でプレゼントを子供たちに渡せるのだ。映画「サンタクロースになった少年」を先日観て涙し子供たちのことを思い出したばかりのところへうれしいギフトだ。コロナで健常者以上に胸を痛めた子供たちにサンタの夢を届けたい。

永すぎた春

豊饒の海四部作、午後の曳航、金閣寺と代表作は若い頃読んでいたが改めて三島の天才ぶりに驚くしかない。倒錯した精神世界を想像させる作品には興味がないが、このタイトルで青春小説のごとき清々しい作品を遺す才能はやはり天賦のものだろう。美文というだけでは評しきれない卓越した構想力、展開力にただただ唸るしかない。(98冊目)

英雄ボロネーゼ?

最近嵌っているという細君に与してボロネーゼを注文してみた。わからないのは、ボロネーゼなのかポロネーゼかということと、ポロネーゼだとすればショパンの英雄ポロネーズのポロネーズはポロネーゼと同じなのかということだった。ショパンのポロネーズはポーランド風という意味で、パスタはボローニャ風からボロネーゼが正しいのだそうだ。ミートソース世代には難解だ。

マリアージュ

試飲させてもらおうとしたらいきなりの講義だ。通常の酒はほとんどが軟水でかつ18度でも4分の3は水で薄められている。郡上の酒は硬水でかつ水で薄めず19度から20度を保って蒸留されるらしい。18度を超える酒は一般に市販されないというから入手も困難と聞けば買うしかない。バーボンのような喉越しは旨い刺身と相殺されて吟醸酒の味わいになるのが不思議だ。

認知症を楽しむ

娘夫婦等と旅行に行くのだと前日伝えても、家を空けることは覚えていても誰と行くのかは当日忘れている。翌々日帰宅すると、前日家にいなかったことや誰と旅行に行ったかさえ記憶にない。卒寿の母の認知状態は危険レベルだが、資格を活かして再就職した娘は職場にいるもっと酷い入居者の日常風景を楽しんでいる。孫娘の話し相手になりながら実は孫が話し相手になってくれているのだと悟らされる。

焼きそば信条

突然だが焼きそばをいかにしてパラっとした食感に仕上げるのかが疑問である。木下シェフによれば、袋麺をフライパンでいきなり炒めるのではなくレンジで1分30秒ほど600Wでチンすると言いそうだが、細君にそう言うと無言だ。じゃあ自分でやってみろということかもしれない。得意技が広島焼きしかないのでは、新庄と同じく女性の冷ややかな目に晒されることになる。

閉店の霹靂

学生時代から社会人最初の頃までスキーといえばバスに乗り合わせて志賀高原だ、白馬だ、栂池だとよく向かったものだ。夜行で出発すると決まってこの元越でトイレ休憩となって、再乗車すると眠くなるまでなんだかんだと無駄話をして早朝現地に着く。紅葉狩りの帰途40年ぶりに偶然目にした元越はどうやら閉店しているようだ。青春の甘酸っぱい想い出に引かれながらアクセルを踏み込んだ。

大阪のお母さん

朝ドラを観るような時間帯には仕事に出掛けていたわけだから評判は聞いても人となりまで知ることもない。本名が「南口(ナンコウ)キクノ」だからオロナイン軟膏のCMに起用されたなんていうエピソードは愉快だ。幼少時から世に出るまでの苦労は想像を絶する。いまさらに昭和の時代がなつかしい。(97冊目)

東奔モバイル

凝り出すとなんにでも凝り性だから、放送局の立ち上げと同時に、じゃあ屋外のWi-Fi環境のない場所で放送はできるのかと追究してみた。調べてみるとモバイルルーターが一日単位で500円前後でレンタルできるみたいだ。お天気のいい日に市内の公園にでも行って、まずはデザリングで収録でもしてみるか?YouTubeに「かんちゃん放送局」をお気に入りにしていただければ幸いです。

草薙の剣

年齢差10歳づつの6人の主人公の祖父母や両親の人生と時代を描きながら物語は進んでいく。「かつて若者だった大人は根拠のない夢を変わらずにみているが、当の若者には絶望しかない」と作者はいう。父に疎まれて東征に出たヤマトタケルは草薙の剣で草を薙いだだけでなく、姨にもらった火打ち石で火を放って賊を撃退したという。夢が持てず悩める現代の若者に必要なのは剣より火打ち石なのだと語りかける。(96冊目)

「かんちゃん放送局」開局

忙中閑ありで、読書はちょっとひと休みして今日はYouTubeライブ配信に集中だ。12月25日に企画したクリスマスコンサートをなんとかライブ配信したくて、まずはYouTube単独で、続いて外部カメラ経由にするためOBSというエンコードソフトをダウンロードして実験。「かんちゃん放送局」なるサイトを設けたので、これからはいろいろ発信していくか。

ポーツマスの旗

明治の政治家、軍人はほんとうに偉かったなと改めて気づかされる。日露戦争で大勝利を収めても戦争継続が利をもたらさないことを悟って外交に全てをかけ講和に持ち込む。同じ理念が次世代に受け継がれていたら、愚かな次の戦争に突入することもなかったかもしれない。迫真のドキュメントで語られる講和条約の舞台裏と小村寿太郎の活躍に酔える。(95冊目)