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シテにしてワキである生き方

夢幻能というのは世阿弥が確立した能の様式だ。この世のものではない化身したシテ(主人公)と旅の途中の一人の僧(ワキ)とが交わす邂逅。ついつい自分が主役と思い込んでしまっているのは悲しい性だ。主役と信じ込むからこそ絶望する。取るに足らぬ修行僧であることを自覚すれば、目には見えぬ主人公との間で折り合いをつけていく生き方もまた愉快というものだ。



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